Thornton Niven Wilder

人生の本質を描いた劇作家・小説家
劇作家・小説家のソーントン・ワイルダー(1897年4月17日 – 1975年12月7日)は、1897年4月17日、アメリカ・ウィスコンシン州マディソンで生まれました。
彼は、新聞編集者から外交官へと転じた父のもと、6人兄弟の一人として育ちます。父がアメリカ総領事に任命されると、一家は中国へ移り、香港や上海で生活を送りました。こうした国際的な環境は、後のワイルダーの広い視野に大きな影響を与えたと考えられています。
学びと初期の歩み
ワイルダーはカリフォルニア州の学校在学中に、すでに戯曲の執筆を始めていました。高校卒業後、第一次世界大戦中にアメリカ陸軍沿岸砲兵隊で短期間の軍務に就きます。
その後、オバーリン大学で学び、イェール大学で学士号を取得。さらに1926年にはプリンストン大学でフランス文学の修士号を取得しました。
学生時代にはイタリアにも滞在し、考古学を学ぶとともに、ローマのアメリカン・アカデミー・イン・ローマで研修を受けています。帰国後はニュージャージー州の学校でフランス語教師として働きました。
作家としての成功
1926年、ワイルダーは最初の小説『The Cabala(カバラ)』を発表します。続く1927年の『The Bridge of San Luis Rey(サン・ルイス・レイの橋)』は大きな成功を収め、ピューリッツァー賞を受賞しました。この作品は「20世紀を代表する小説」の一つとしても高く評価されています。
その後も小説を発表し続けましたが、彼にとって最も重要な表現の場は演劇でした。1938年には戯曲『Our Town(わが町)』でピューリッツァー賞(戯曲部門)を受賞し、さらに1943年には『The Skin of Our Teeth(危機一髪)』でも同賞を受賞しています。
戦争と教育者としての顔
第二次世界大戦中、ワイルダーはアメリカ陸軍航空軍に所属し、アフリカやイタリアで任務に就きました。戦後はハーバード大学で客員教授を務めます。
彼は自身を「まず教師であり、次に作家である」と語っていましたが、創作への情熱は衰えることなく、生涯にわたって執筆を続けました。
多彩な活動と演劇への情熱
ワイルダーは自作の執筆だけでなく、多くの外国戯曲の翻訳も手がけました。複数の言語に通じていたこともあり、その活動は非常に幅広いものでした。
また映画の分野にも関わり、映画監督ヒッチコックの作品『Shadow of a Doubt(疑惑の影)』の脚本制作にも参加しています。
さらに彼の戯曲は後の舞台芸術にも大きな影響を与えました。改作によって成功を収めた作品は、のちにミュージカル『Hello, Dolly!(ハロー・ドーリー!)』の原作として広く知られることになります。
革新的な演劇観
ワイルダーは、演劇について次のように語っています。
演劇は、小説や叙事詩よりも高い次元で「語り」の芸術を実現する
この理念のもと、彼は観客に直接語りかける手法や、舞台装置を極限まで省いた演出を取り入れました。こうした試みは、観客の想像力を引き出す革新的なスタイルとして、現代演劇にも大きな影響を与えています。
晩年と遺したもの
1968年には小説『The Eighth Day(第八の日)』で全米図書賞を受賞しました。1973年には最後の小説『Theophilus North(テオフィルス・ノース)』を発表します。
そして1975年12月7日、ワイルダーはその生涯を閉じました。
まとめ
ソーントン・ワイルダーは、日常の中にある普遍的な真理を描き続けた作家です。
派手な出来事ではなく、ごく普通の人々の営みを通して「生きることの意味」を問いかけるその作品は、今なお多くの人々に読み継がれ、上演され続けています。