Lyndon Baines Johnson

リンドン・ベインズ・ジョンソン(Lyndon B. Johnson、1908年8月27日 – 1973年1月22日)は、アメリカ合衆国第36代大統領として、1963年から1969年まで在任した政治家である。ジョン・F・ケネディ大統領の暗殺によって突然大統領となった人物として知られる一方、国内政策では公民権、貧困対策、教育、医療制度などに大きな改革をもたらした。アメリカ現代史において、フランクリン・D・ルーズベルトと並ぶほど国内改革に積極的だった大統領の一人である。しかし、その一方でベトナム戦争を拡大させたことから、現在でも非常に評価の分かれる大統領でもある。
テキサスで育った政治家
ジョンソンは1908年8月27日、テキサス州中央部のジョンソンシティー近郊で生まれた。父サミュエル・イーリー・ジョンソン・ジュニアは州議会議員を務めた人物であり、政治は幼いころから身近な存在だった。
大学卒業後、教師として働いた経験は、後の教育政策にも影響を与えたとされる。1937年、29歳でテキサス州選出の下院議員となり、ワシントンで政治家としてのキャリアをスタートさせた。
ジョンソンは非常に精力的な政治家だった。相手の肩に手を置き、顔を近づけて説得する独特の交渉術は「ジョンソン・トリートメント(Johnson Treatment)」と呼ばれた。味方をまとめるだけでなく、反対者に対しても粘り強く働きかけ、法案を成立させる能力に優れていた。
1949年には上院議員となり、1955年には民主党上院院内総務に就任した。わずか47歳で、アメリカ議会における最も有力な政治家の一人となったのである。
ケネディの副大統領から大統領へ
1960年の大統領選挙では、民主党のジョン・F・ケネディが勝利し、ジョンソンは副大統領となった。
しかし、東部エリート層を基盤とするケネディと、テキサスを中心とする南部政治家のジョンソンは、政治的背景も性格も大きく異なっていた。副大統領としてのジョンソンは、ケネディ政権内で必ずしも大きな影響力を持っていたわけではなかった。
ところが1963年11月22日、ケネディがテキサス州ダラスで暗殺されると、ジョンソンは大統領に就任した。わずか数時間後、エアフォースワンの機内で大統領就任宣誓を行った。
国家が大きな衝撃を受けていた時期に大統領となったジョンソンは、ケネディの政策を継承するとともに、自らが長年構想してきた国内改革を推進していくことになる。

「偉大な社会」
ジョンソン政権を特徴づける言葉が「偉大な社会(Great Society)」である。
ジョンソンは、単に経済成長を実現するだけではなく、貧困、人種差別、教育格差、医療問題などを解決することによって、より公正な社会をつくろうとした。
その中心となったのが「貧困との戦い(War on Poverty)」である。1964年には経済機会法が成立し、貧困層への教育・職業訓練・地域支援などが拡大された。
教育分野でも大きな改革が行われ、連邦政府による教育支援が強化された。また、高齢者向け医療保険制度であるメディケア、低所得者向け医療制度であるメディケイドも1965年に創設された。これらは現在のアメリカの社会保障制度を構成する重要な制度となっている。
公民権運動と人種差別
ジョンソンの歴史的な功績として特に重要なのが、公民権法の成立である。
1964年、公民権法が成立し、人種、肌の色、宗教、性別、出身国などを理由とする差別が、公共施設や雇用などの分野で大きく制限された。
さらに1965年には投票権法が成立した。南部では黒人市民が投票することを妨げる制度や慣行が長く存在していたが、投票権法はこうした差別を是正するため、連邦政府の権限を強化した。
テキサス出身の南部政治家であったジョンソンが、こうした公民権政策を強力に推進したことは大きな歴史的転換だった。ジョンソン自身も、南部民主党の政治的伝統と決別することになる危険を理解していたと考えられている。
ベトナム戦争という大きな代償
しかし、ジョンソン大統領の評価を難しくしている最大の問題がベトナム戦争である。
1964年のトンキン湾事件をきっかけとして、アメリカはベトナムへの軍事介入を本格化させた。1965年には北ベトナムへの大規模な爆撃が始まり、アメリカ軍の地上部隊も大幅に増強された。
ジョンソンは、南ベトナムが共産主義勢力によって制圧されれば、東南アジア全体に共産主義が広がると考えていた。しかし、戦争は予想以上に長期化し、アメリカ軍の犠牲者も増加した。
国内では反戦運動が拡大し、若者や大学生を中心に政府への批判が強まった。さらに、ベトナム戦争に巨額の予算が投入されたことで、「偉大な社会」の国内改革にも財政的な制約が生じた。
1968年のテト攻勢は、軍事的には北ベトナム側に大きな損害を与えたものの、アメリカ国内では戦争に対する不信感を急速に高めた。ジョンソン政権への支持も大きく低下していった。
大統領選からの撤退
1968年3月31日、ジョンソンは国民向けテレビ演説で、次期大統領選挙において民主党候補者の指名を求めないことを突然表明した。
「私は、そして私の家族は、これ以上政治的な候補者として自分自身を捧げることはない」
という決断だった。
ベトナム戦争と国内の政治的混乱に疲弊したジョンソンは、1969年1月に大統領職を退いた。その後、テキサス州の牧場で晩年を過ごし、1973年1月22日に64歳で亡くなった。
ジョンソンの歴史的評価
リンドン・B・ジョンソンは、単純に「偉大な大統領」あるいは「失敗した大統領」と評価することのできない人物である。
国内政策だけを見れば、公民権法、投票権法、メディケア、メディケイド、教育支援、貧困対策など、アメリカ社会を長期的に変化させた重要な改革を実現した。特に公民権政策は、アメリカ社会における人種差別の歴史を考えるうえで極めて重要である。
一方、ベトナム戦争の拡大は、数多くの死者を生み、アメリカ社会を深く分断した。ジョンソン自身も戦争を終わらせることができなかったことに苦悩したとされる。
ジョンソンという政治家の最大の特徴は、巨大な政治的権力を使って社会を変えようとした点にある。議会政治の仕組みを熟知し、法案を成立させるために妥協と説得を重ねる一方、自らが正しいと信じた政策には強い意志を示した。
その結果、彼の大統領時代にはアメリカ社会の姿を変えるほどの改革が次々と実現した。しかし同時に、ベトナム戦争という巨大な問題がその功績を覆い隠すことになった。
リンドン・B・ジョンソンは、20世紀アメリカ史の中でも特に「成功と失敗が極端に同居した大統領」といえる。彼が残した「偉大な社会」の制度は現在もアメリカ社会に生き続けており、その功績とベトナム戦争の代償をどのように評価するかは、今日に至るまで議論され続けている。
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